東高野街道D 9.1km 2021年3月7日

A 2.6q (2021年2月24日) 


「安堂」(柏原市)から、東高野街道に挑戦します。大和川を越えて、南河内を歩くことになります。



「安堂」交差点から始まります。対岸に大和川治水記念公園があり、中甚兵衛さんの銅像も建っています。「龍田古道3」で立ち寄ったところなので、写真だけにします。



そして、新大和橋を渡り始めます。




橋の途中で、神の山「二上山」に挨拶をしました。




新大和川付替起点となるところです。




橋を渡った後も、石川沿いの整備された道が続いています。



wcは河川敷にあります。ちょいとお邪魔しました。




右の小さな道を進むのが東高野街道です。




国府八幡神社なり。本当は、ここを左折するのが正解でしたが、わたしは元に戻ってしまいました。いえ,取るに足りない、小さなミスです。



この際ですから、国府遺跡を訪れたいとは思いましたが、わずか300mの寄り道を避けました。

(長尾街道を歩いた際に、国府遺跡を訪れました。)



近鉄南大阪線の踏切を渡り、道明寺天満宮と道明寺の間の街道を南下しています。



ちょいと道明寺の山門だけ観ておきました。



B 6.5km(2021年3月7日)

道明寺から歩き始めました。前半は (以前に) 体験済みなので、安心して歩くことが出来ました。


天満宮と道明寺の間の東高野街道までやって来ました。本日のスタ―トはここからです。



南下します。




カラーの消火栓も、古墳仕様。




薄田隼人正兼相の墓は、ハクモクレンが目印なり。ごく近くまで来て、地元の方に「あの花のところ」と教えて頂きました。



薄田隼人正は、道明寺の戦いで戦死しました。彼のお墓は生國魂神社に近い寺にもあります。冬の陣の際、大酒を食らって身動きならず、敵に砦を奪われてしまい、ひんしゅくを買ったことでその挽回を焦ったとか。。



元の道に戻って、街道歩きを再開。整備された石畳の道に入ります。中央奥の山は応神天皇陵古墳。



「東高野街道」道標あり。

右 道明寺 玉手 なら 京
左 八尾 久宝し



羽曳野市立 誉田中学校




誉田宮(誉田八幡宮)入口




これまでに「古市古墳群巡り」「大坂の陣・戦場巡り」「古市街道を歩く」の際に訪れたので、本日が4回目です。



WCは欠かせません。




誉田林古戦場は、大坂夏の陣のものではありません。

真田幸村軍はここまで来ましたが、軽く戦ったあと、古市街道沿いに平野まで退却しました。



見ればわかります。




古市街道の終点に道標あり。

右 道明寺玉手山
左 ふぢ井寺大坂道



古市街道




古市街道の終点に道標あり。

右 大峯山 つぼさか たゑま

正面 藤井寺 大阪 方面
左 柏原 大阪 方面



さらに南下します。




右手に白鳥神社。ここから古市駅に向かったことがあります。



一度だけ突き当りを左折、すぐ右折しました。またまた、どんどん南下します。



近鉄南大阪線の踏切を渡ります。




安閑天皇陵古墳





突き当りを (富田林方面に) 左折します。

国道170号線(旧道)沿いに近鉄長野線が走り、同じく東高野街道も通っています。



国道170号線(旧道)から離れ、左の細い道に入ります。



高屋神社




東高野街道 (富田林市方面へ)




南阪奈道路を潜ります。




「水守」




「東高野街道」(河内長野方面) 

富田林市に入った模様。




ホ―ス格納箱

「喜志」町会




突き当りを右へ

道が2つあり。間違えて、修正を図って混乱。ナビの世話になりました。



PLの塔が左前に見えたら、間違いありません。




富田林「寺内町」行きは止め、喜志駅に到着しました。

かつて、貴志駅から石川を渡り、「太子」経由で源氏三代のお墓を訪ね、「上ノ太子」まで歩いたことがあります。

太子快道I (お礼参り) のときも、貴志駅から金剛バスに乗り、「近つ飛鳥風土記の丘」から歩き始めました。



もう少しですが、無理はしないでおきます。時刻はam11:50 でした。自宅に戻って昼食をとるには、頃合いの時間かと考えました。外食が難しい時節柄、仕方ないと思います。